水島宏明 『テレビのミカタ、新聞のミカタ、社会のミカタ』
ジャーナリスト/テレビ批評家/法政大学社会学部教授の水島宏明の個人ブログです。 元日本テレビ「NNNドキュメント」ディレクターで、貧困問題や医療の問題、農薬汚染、原発事故など数々のドキュメンタリーを制作してきました。 テレビ番組のこと、テレビや新聞のニュース報道のこと、社会の問題、<働き方>の問題など、様々な問題についてジャーナリストとして発信しています。 テレビ、新聞、ネット、そして世の中の動きをどう読み取れば良いか。 記事や番組など今のマスコミの「見方」を解説します。 情熱と理性を持ったジャーナリストたちの「味方」としても、優れた報道を紹介したいと考えています。
2021年6月13日日曜日
尾身茂さんの主な国会発言を書き起こしてみた(5月31日ー6月4日)
政権や政府との間の溝があるとか「尾身の乱」などと政権との対立構図ばかり強調されるコロナウイルス感染症分科会の尾身茂会長の国会での発言。
国会のインターネット中継を見て発言を「書き起こし」してみました。
現代ビジネスオンラインで記事にしたので、そちらの記事を書くために作成したのものです。
斜体にしたのはテレビ番組で「切り取られた」部分です。
表記はなるべく正確に書いたつもりですが、あくまで記事作成のための作業用の「書き起こし」なので必ずしも一字一句まで書き写したわけではありません。厳密さを追求される方は国会のインターネット中継で確認してください。
参考になれば幸いです。
TV衆議院インターネット審議中継
参議院インターネット審議中継
・5月31日 参議院・決算委員会
参考人として招致された尾身会長は、立憲民主・社民会派の勝部賢志議員の質問に答える形で答えている。
(勝部賢志議員)
東京オリンピック・パラリンピックの開催が新たな変異株の感染拡大が懸念されるわが国の状況に対してどのような影響を与えるのか。感染のリスクをどのように考えているのか。また「(選手を含めた大会関係者と外部との接触を遮断して)バブル内に封じ込めるから大丈夫」というようなオリ・パラ主催者側の感染対策の信頼性についてはどのように考えるのか。率直にご意見をいただきたい。
(独立行政法人・地域医療機能推進機構理事長 尾身茂)
再三申し上げてきましたが、私自身はオリ・パラを開催すべきかどうか判断する立場にはございませんけれども、仮に日本政府あるいはオリ・パラ関係者が開催するという前提に立てば、私は2つのことを分けて考えた方がいいと思います。
一つは、バブルの中と言いますか、これは今、プレーブック(筆者注・選手ら大会関係者向けの行動のルールブックのこと)等でオリンピック関係者が非常にエネルギーを注いで、このバブルの中、あるいはスタジアムの中での感染を、どうリスクを低くするかという議論をされていますよね。
それは非常に重要なので、また改善すべきことは、また今(プレーブックの)第3バージョンを作るということでしっかりやっていただければ、私は選手を含めてある程度はコントロールが可能と思っています。
感染リスクというのは、実はあまり議題になっていませんけれども、実はそこじゃなくて、日本国内の感染状況がどうであるかということが私どもは国内の感染対策に対してアドバイスする立場におりますので、関係者がもし開催するのであれば、どういうことの感染のリスクがあるかということを述べる責任があると思います。
そういうなかで最も重要なことの一つは、バブルの中じゃなくて、このオリンピックの開催に伴う地域ですね、一般のコミュニティー、東京、ほかの…。人々の行動、人々の「人流」。接触の機会がどうなるかということで、普通にしていればこの人流が増えて接触の機会が増えることはほぼ間違いない。
で、オリンピックは格段の…、普通のイベントとは違いますから、放っておけば人流が増えて感染…、でオリンピック開催の近くに連休がありますよね。連休ということで東京にいなくて地方に行く、ということがあって、国内での、県を越えた、県内もそうですが、県外への人々の動きで感染が拡大するリスクが当然あるので、それに対してどのような対策を取るか、しっかりと今から考えていった方がいいと私は思います。
(勝部議員)
こうしたことについて専門家の方々が公式な場で政府と議論するような場はありましたか。
(尾身氏)
非公式には何回か事務局の方が来られて私どもの考えを示したことはありますが、正式には何か会議があって、あなたたちの意見はどうかと聞かれたことは今のところはございません。
・6月1日 参議院・厚生労働委員会
(福島みずほ議員/立憲民主・社民)
パブリックビューイングと感染リスクについてどう考えるか。
(尾身氏)
私はパブリックビューだけを議論するよりは日本の感染全体がどうなるかを考えるべきだと思う。仮に政府や関係者がオリンピックをやるということになれば、それを機会に一般の人々にも人が動けば感染が期間中かあるいは期間後に拡大することはほぼ確実です。多くの市民に協力。感染をしないようにあまり県を越えて動かないようにとの要請をする必要がある。
その時に一部でもパブリックビューをやるのはおそらくダブルメッセージになって、感染が起きるということに加えて、一般の人、日本全国の人に協力してもらわなきゃいけないのに、オリンピックの関係者がかなりの努力をしているのを見せないと、今もう協力が言いにくい状況になっているわけですよね。
そういう中では仮にやるにしてもスリムにしてなるべく感染しないという努力をしないと一般の人の協力を得られないということもあるので、その辺はパブリックビューをやることのインパクトですよね、そういうところでは勝てば人間、応援している人がいれば大声を出したくなるのが人情ですよね。みんなでハグしたいということもあるかもしれない。そういうこともありえると。そういうことも慎重に考えて判断されればいいと思います。
・6月2日 衆議院・厚生労働委員会
立憲民主・無所属の会派の川内博史議員
(川内議員)
オリンピック開催の是非についてなんらかの形で政府に意見を表明するのか。
(尾身氏)
我々専門家の意見を何らかの形で関係者に伝える必要がある。その際に政府に伝えるのか、あるいはその他に伝えるのか。我々の役割は国内での感染拡大リスクをなるべく小さくすること。これをできるのは政府だけではない。オリンピックの委員会というものがあるので。分科会というのは政府(が相手)ですよね。組織委員会となるとそこには政府関係者もおられるのでそういう方法がいいのか。政府だけではコントロールできないので当然、組織
委員会、あるいはIOCも考えている。
共産党の宮本徹議員からの質問
(宮本議員)
地元の夏祭りなどがどんどん中止になるなかでオリンピックだけ特別扱いして開催することが社会に対してどういうメッセージになるのか。お考えを聞かせてほしい。
(尾身氏)
私は国および組織委員会の関係者がオリンピックをやるという決断をしたのかどうかよく分かりませんけれども、するのであれば私はやや比喩的に言えば、三位一体の努力が必要だと思います。
一つ目は政府あるいは自治体による一般市民の協力で人流にともなう接触機会をなるべく減らすことへの努力が必要だと思います。もう一つはここに来て人々から緊急事態宣言などへの協力を得にくくなったという現実がありますから、相変わらず人々の努力だけに頼るという時期は過ぎたと思いますので、ITのテクノロジーとかサイエンスを最大限に活用するというのがもう一つ。
それから、最後はオリンピック組織委員会の人たちにぜひやっていただきたいのは、オリ・パラをもしやるのであれば、その規模をなるべく最小化して、管理体制をできるだけ強くする。人々、国、自治体の努力とサイエンスとテクノロジーの最大の活用とオリンピックをオーガナイズする人たちの責任としては、今の状況でやるというのは普通はないわけですよね。このパンデミックで。
そういう状況の中でやるということであれば、オーガナイザーの責任として、開催の規模をできるだけ小さくして管理の体制をできるだけ強化することはオリンピックを主催する人の義務だと。そういう意味で三位一体の努力が必要だと思います。
(宮本徹議員)
五輪をやること自体が第5波を大きくする危険があるのではないか。
(尾身氏)
仮に五輪をやるのであればリスクを最小化するのが関係者の務めであると思う。私はどうやって感染リスクを最小化するかということは当然、オーガナイザーの方々の責任だと思いますけど、そもそもオリンピック、今回こういう状況の中で一体何のためにやるのか。目的ですよね。それが明らかになっていないのでこのことをはっきりと明言することが実は人々の協力を得られるかどうかという非常に重要な観点だと思うので。
オリンピックを仮にやるのであれば、いかに感染のリスクを評価して、それを最小化することはもとより、一体、何のためにこのオリンピックを開催するのかという明確なストーリー、話をいかに感染リスクを最小化するかという話とパッケージでしないと、国民は国や自治体は大臣がおっしゃるように「なるべく外には出ないでテレビで観戦する」ということになりそうですよね。
そういう中で、なぜやるのかということ、あるいはオリンピック委員会の人がどれだけ汗をかくのか、さきほどの三位一体のオリンピック関係者の方ですよね。そういうことが明確になって初めて、一般の市民は「それならこの特別な状況を乗り越えよう。協力しよう」という気持ちになるんだと思いますけど、そうしたはっきりした国から、あるいはオリンピック委員会でしょうね、から、なぜやりたいのか、国、すみません、これは誰が決めるのかわかりませんけど、関係者がはっきりしたビジョンと理由を述べることが私は極めて重要だと考えます。それがないと一般の人はこれに協力しようと思わないで、地方で飲み会があったり、地方へ帰れば同級生と飲もうとなる可能性が否定できないと思います。
・6月3日 参議院・厚生労働委員会
立憲民主・社民会派の打越さく良議員の質問。
(打越さく良議員)
現在もっとも心配なのは国内の流行対策とオリ・パラの開催の両方を議論する場がないことです。厚労省アドバイザリーボードで国内感染のリスク評価を行い、分科会でオリ・パラ等国内外のリスク評価を行うことが妥当と考えますが、尾身会長のお考えをお聞かせください。
(尾身氏)
おっしゃったアドバイザーボードおよび分科会でオリンピックを開くかどうかというのを我々が判断するということはそういう立場にもないし、そういう権限もないので立場にないし、権限もないということですけれども。
しかしですね。仮に…、今どうもそういう状況になっているようですが、仮に政府が、あるいはオリンピック委員会、IOC等が決定をするということを判断された場合には、私どもはこの1年以上、ずっと国内の感染対策について政府にアドバイスをするという立場で来ていますから、オリンピックを開催すればそれに伴って、国内の感染、あるいは医療の状況に必ずなんらかの影響を起こしますから、我々こうした役割を担ってきた専門家としては、仮に国が、あるいは組織委員会がオリンピックを開催すると決定した場合には、感染のリスク、あるいは医療逼迫への影響を評価するのは我々のプロフェッショナルとしての責任だと思っています。
したがって分科会の場でやるのが相応しいのか、あるいは、組織委員会に我々の考えを示すのか、あるいはその他のメニューがあるのか、いろいろな選択肢があると思いますけど、それといつその我々の考えを示すのかという選択肢はあると思いますけど、私どもはなるべく早い時期に、どういう形にせよ、我々の考えを正式にしかるべきところと場所に表明するのが我々の責任だと思っていますので、そうしようと思っています。
(打越議員)
今のところは政府あるいは厚生労働省から、そうしたオリ・パラに関連して感染についてのリスク評価、開催の可否について諮問は受けていないということですね。
(尾身氏)
これも何度か申し上げてきましたが、組織委員会の事務局の方から非公式に何回か私のところに接触があって、その時に私の個人的な意見は申し上げましたけれども、専門家の人たちの意見をまとめて述べてくれというような正式な要請は何もございません。
(中略)
(尾身氏)
オリンピックの開催は大きく分けて2つの側面があって、その2つの側面が非常に密接に関係しているということだと思います。一つはいわゆるバブルの中、あるいはスタジアムの中の感染対策ということで、これについてはIOCや組織委員会がプレーブック(ルールブック)というものを、第3番目ができるということですが、しっかりやろうとしている。やろうとしていることは間違いなくて、いろいろなワクチンを打ったり、検査をしたりということで、私はそちらはある程度は制御をすることは可能だと思います。
しかし、実際にオリンピックという、これは普通のイベントとは違う規模ですよね、社会的な注目度も違う。このことをすることによって、当然、人の流れというものが生まれてきます。人の流れというのは大きく分けて3つの要素があって、人流というのは何なのか疑問に思われる人がいるかもしれませんが、1つは全国から観客が移動するという側面です。
2つ目はパブリックビューだとか、大会の外で行われるスポーツ・イベント。そこでは観客と応援という側面があります。3つ目は都市部に、お盆も入ってくる、連休もある。期間中、都会から地方、お盆の帰省とか。家族に会う。おじいさんに会う。友人に会う。こういう大きな3つの要素があります。したがって、オリンピックのバブルの中だけを議論してもほとんど意味はないと思います。
むしろ感染の機会は、オリンピックの開催に伴う人々の動きが、私3つ申し上げましたけど、これが起きる可能性が極めて高い。したがって、これを成功させるためにオリンピック委員会も最大限の努力をしてもらわないといけない。
私はそれが開催する人の責任だと思います。それには規模をなるべく小さくして、人数は少なくして、それから管理ですね、選手の方はリスクは極めて低いと思います。しかし、大会関係者、ジャーナリスト、スポンサー、政府関係者もいる。要人もいる。これらの人の管理はそう簡単ではない。
それと日本国内の(感染予防への)理解。この2つが一緒の方向を向いていないと、いくらバブルの中をコントロールしても、なかなか一般の人が納得して、たとえば大臣がおっしゃったようなテレビを家で見てくださいというようなメッセージが伝わらない。
そういう意味でオリンピック委員会の方も日本国内の状況を十分に理解してもらわないと、スタジアムの中だけ考えても、しっかりした感染対策はできないと思うので、そういう意味で私は三位一体と言っていますけど、オリンピックの関係者と政府と、それから政府の方にはこれから非常に重要な時期になりますから今まで通りの感染対策ではダメで、ワクチンに加えて検査だとかその他のテクノロジーを使った、今まで以上に強い対策をするという、それぞれが連携した役割を果たさないと難しい。
これは本来、こういうパンデミックでやるというのは普通でない。それをやろうとしているわけで、やろうとするならかなり厳しい責任をオリンピック委員会も政府もやらないと一般の市民はついて来ないのではないか。ぜひ強い覚悟で、やるならですね、やってもらう必要があると思います。
・6月4日 衆議院・厚生労働委員会
立憲民主党と無所属会派の長妻昭議員から質問(途中から)。
(長妻昭議員)
自分の息子や娘からの素朴な疑問として、自分の学校の運動会は中止になった。でもオリンピックはやると。「これ、お父さん、お母さんどうしてなの?と言われた時にどう答えればいいのでしょう」という親御さんからの投げかけがあった。これ、尾身先生、いかが思われますか。
(尾身氏)
委員がご質問のオリンピックの運営方法ですね。これについては組織委員会とか政府が決めることで、我々専門家はむしろ開催にともなう、もし、やるとなれば、国や組織委員会が決めた場合には、どんなリスクがあるかというのをなるべく専門家として客観的な意見を述べるというのが我々の務めだと思いますので、我々のリスク評価をもし、政府、組織委員会が聞いていただけるのだったら、そうした中でそうした判断をしていただけたらと思います。
(長妻議員)
素朴な疑問ですが、運動会はダメだけど、オリンピックはいいというのはどういうふうに説明すればいいですか。
(尾身氏)
オリンピックを仮にやると決めた場合、そこはバブルの中ではなくて、日本の一般の地域の感染のリスクの方がはるかに問題なので、一般の市民の協力が必要なので、やはり一般の市民が納得できるような開催、あるいは市民へのメッセージ、説明というのが大事だと思います。
(長妻議員)
尾身先生は昨日の参議院の厚生労働委員会でオリンピックを開催すれば国内の感染の状況や医療に必ず何らかの影響を及ぼすという話がありました。それをやる場合、オリンピックを規模を縮小するにせよ、やる場合とまったくならない場合は感染者数は違ってくるとお考えですか。
(尾身氏)
私は国が、組織委員会が仮にやるという決定をした場合には当然、これだけの人が来て、大イベントをやるわけですから、感染のリスクが当然あるわけですよね、一定程度。
やるのであれば感染のリスクは地域においてが多いので、それをどう組織委員会と国が連携してリスクを最小限にすることが求められるのだと思います。
(長妻議員)
具体的に五輪を開催した場合としなかった場合でどれだけ感染が拡大してお亡くなりになる人がどの程度増加するのか、そういうことも真剣に議論すべき段階に来ているのではないのか。まったくやらない場合に比べてどの程度、被害が増えていくのか、尾身先生の所感を教えてください。
(尾身氏)
ご質問の私自身の気持ちとか個人的なことで決めるわけにはいかないんで、専門家として我々が考えていることは何人かの独立した研究者に、オリンピックの開催で私が何度も申し上げたようにバブルの中の感染よりも、地域での人の動き、何もしない場合ですよね。強く国が対策をしっかり打って、それに一般市民が協力してくれる場合とそうでない場合が当然ありますよね。そういう場合にどのくらい感染者が増えるのかをお示しすることがしっかりした感染対策を打ってもらうための一つの参考になるので、そういうことはまだ検討中ですけど、そういうようなスタディをするのが我々の仕事だと考えて今それを考えているところです。
(長妻議員)
これはリスクとベネフィットを厳密に比較衡量して、やるやらないを議論する時がとっくに来ていると思います。
オリンピックを限定的にせよやる場合には、組織委員会から発表がありましたが、国内外でだいたい38万人くらいが集ってくると。無観客であっても、ということです。組織委員会事務局に資料を作っていただきましたが、オリンピック25万人、パラリンピック13万人の計で38万人が関係者として集うわけです。尾身先生がおっしゃったように市中に、街中に、オリンピックということで非常に緩んだ空気が相当増えてくるということで感染が増えるということは今お認めいただいた。ということは、たとえ限定的であってもオリンピックをやる場合はまったくやらなかった場合と比べて、お亡くなりになる方も増えてくる。
じゃあ、どれだけ被害が増えた場合は中止で、延期で、このくらいの被害ならやっていいと。
こういう議論をやっていいのかということも含めて、私は倫理学者や哲学者も含めて疫学の専門家を含めて相当きっちりと議論しないといけないと思います。
尾身先生、そういうお亡くなりになる方、どの程度、オリンピックとの相関関係があるかを議論する必要性をどういうふうに感じますか。
(尾身氏)
どの程度の人流が増えればどの程度の感染者が増えるかですよね。
それは政府や組織委員会が意思決定する時に参考にはなると思います。
しかし本当に大事なことはそういうことを参考にして、委員がおっしゃるように、仮に感染者が増えて重症者の人が出る可能性がありますよね。そうしたことがないように今から、これは仮にオリンピックを開催するということになれば当然、緊急事態宣言の解除というものオリンピックとは関係がないけれど事実上タイムテーブルには載ってくるわけで解除した後どうするのかということも含めて、そういう感染者の増加ということがないような形でしっかり解除をして、その後の解除した後の対策をしっかり打つし、一般の市民にどういうふうな協力をお願いするか、政府はどういうことをこの間、新たな対策というのが私は必要になってくると思います。それはこの前も申し上げましたけれども、いろんなテクノロジーですよね。ただ検査じゃなくて、ワクチンじゃなくて、他のいろいろなテクノロジーをフルに活用してそういうことがないように、してもらう。何人許容できるか、というのはたぶんそこが目的ではない。そういうことが起きないように、もしやるのであればしっかり対策を打つことが大事だと思います。
(長妻議員)
尾身先生の後段のところは、起きないように全力を尽くす、ということは当然だと思うんですね。ただ前段の、さきほどおっしゃったようにオリンピックをまったく開かない場合と開いた場合で感染者が増えるわけです。リスクが高くなるとおっしゃいましたから。
私、これはメリット、デメリットを天秤にかけて量れるようなものなのかなと。天秤というのは、オリンピックをやらない場合よりも感染者が増えて、重症者も増えて、お亡くなりになる方もどのくらいかは別にして増えると。そういうリスク。
もう一つはベネフィットがあると。オリンピックですね。今のリスクを上回るベネフィットというのは、どういうものなのか。今までかけたお金がもったいないとか、経済効果が減退するとか、それが命に優先するのか。天秤にかけること自体、私は疑問に思う。いったい、亡くなる方が増えることを上回るベネフィットというのは、どういうものがあれば開催、ベネフィットが上回ると思いますか。
(尾身氏)
リスクとベネフィットを考えて、どう判断するのかというのは前から申し上げている通り、私のすべき判断ではない。むしろさきほど亡くなる方が出るのではないかというお話…。そういうことがないようにするのがみんなの願いで、感染のリスクというのは実は外から来る選手や関係者がいて、その人たちの中のことと、その人たちと日本人との接触があるという場合、それから日本人のほとんどは接触しないですよね、その3つのパターンがある。私は何度も申し上げましたけど、これは選手と関係者、あるいは選手と接触する日本人というよりも、このオリンピックを契機にして、日本の中の人の動きが、動く。ということがある程度想定…、これをどうやって抑えていくか。これの方がはるかに大事。このことを是非、組織委員会と政府にはご理解…、どうしてもプレーブックの話に行く。選手のワクチンの話に行く。実はそれは大事ですけど、それはもうある程度は検討されていること。
むしろ問題は地域における…喜び。オリンピックというのは特殊なあれですから。
ということで先生のご懸念のことを、(もしオリンピックを)もしやるのであれば、本当はそこをしっかりやっていただきたいというのが今のところの私たちの今の思いです。
(長妻議員)
いやそういうふうにならないように、というのがもう当然なんですよね。誰も異論ないと思いますけど。特に尾身先生がおっしゃった街中のゆるみ。これをどういうふうにコントロールするのかは相当に難しいですよ。(中略)昨日、加藤官房長官の記者会見で、記者の方がオリンピックを何のためにやるのかという尾身先生の言葉に関連してオリンピックの意義と目的について質問したら官房長官は3つ言ったそうです。1つ目はスポーツの力を日本および世界に発信する。2つ目は震災から復興した姿をお見せすること。3つ目は、新型コロナを克服し、世界規模の課題を解決することを示すこと。この3つだと言っている。
私はこれがベネフィットとして天秤に載せて、感染のリスク、これを量るよりも、3つの目的がベネフィットが重いとは到底思えないのですが、尾身先生は(「オリンピックは一体何のためにやるのか」という問いを投げかけた立場でどう考えるのか)
(尾身氏)
私はベネフィットとリスクという判断は今までしていませんし、むしろ、普通に考えて、これはやるのであれば開催の意義を組織委員会がはっきりと打ち出す、これは普通の考えですよね。それについてはいろいろな考えがありますけど、ご質問ですので、私は個人としてはスポーツの力というものはそうだと思いますし、首相は平和の祭典ともおっしゃっているし、いいことだと思います。平和の方が。そうした政府の考えに加えて申し上げると、私は個人的には仮にやるとすればそうしたことに加えて、私としては2つのことに関心があります。一つは選手の気持ち。一度延長してその中で困難な状況の中でなんとか今までの成果をこうした舞台で示したいという気持ちはそれは私は1個人としてはわかるので、可能であればそうしたチャンスを選手の人に、もうすでに一回延びていますからね、という気持ちがあります。
もう一つの私の関心事は、もし政府、組織委員会が(オリンピックを)やるのであれば、感染のリスクを最小化する、どういう方法で最小化できるのか、という会議の運営の仕方だと思います。それはおそらく仮にオリンピックが始まった時に、日本の方も外国の方のごひいきの選手がいる。その人が良い成績を出したら、当然、そこには感動があり、喜びがある。ドラマがある。きっとあると思います。今まではそのドラマを会場で1964年の東京オリンピックのように、みんなが肩を抱いて、肩を叩き合って大声でその喜びを会場内で共有したと思うんですけど、私は今回はこういう状況ですから、そうした感動、そうしたドラマを新しいITの技術、通信技術を駆使して、その感動を二方向。会場と日本だけでなく各国の家庭にいる人との双方向の共有を考えていて、実はこうした感染症はこれで終わるだけではありません。何回か来る可能性があるので、私は、もしやるのであれば、今回の東京大会を契機に新しい感染症に対処する方法、IT技術を使った方法の始まりというかきっかけになることを期待している。もしやるとしたら、の私の個人的な思いです。
(長妻議員)
専門家がなるべく早く考えを示したいとおっしゃっていましたが、いつ頃になりそうですか。
(尾身氏)
それは今、私ども専門家の間で考えていますが、政府は6月20日に決めると私は側聞していますので、なるべくそれより前に我々の考え方を何らかの形でお伝えできればいいと考えていますが、日にちは決まっていません。
(長妻議員)
尾身先生がリスクを最小化する、IT技術を活用するとおっしゃっても、リスクをなくすことはできないと思う。オリンピックをやらない場合と同様にリスクを抑え込むことは可能なのですか。
私は5つのリスクがあると思うが、その中にはIOCが関わることができないリスクもある。
一つはオリンピックにともなう街中のゆるみ。オリンピック開催前後、非常にお祭り気分になって、五輪の開催は人々が外に繰り出す契機、人流が増える契機になるおそれがある。たとえば飲食店に時短の要請をしていても、ビヤホールは満員になるだろうし、今オリンピックをしているのなら少しくらいならというような気持ち。こういうのをどうやってコントロールするのか。こういうことについてはIOCや組織委員会もコントロールの外に置かれているのではないか。この点についてはいかが思われますか。
(尾身氏)
私ども専門家も地域での感染をコントロールするには、感染対策以上に、人々の気持ち、考えが非常に重要だと思います。おそらくこれだけの格別なイベントが起こる場合には今「お祭り気分」とおっしゃっていましたけど、そういう高揚した気分というのがおそらく生まれるのだと思います。その気分を味わいながらどうやって人に感染させないというのは、ここは総論ではなくて各論に行かないといけないけれども、今、委員からはその部分は組織委員会がコントロールできないのでは、というお話があった。私はコントロールという言葉がふさわしいかどうかというのは分かりませんが、組織委員会の人に理解してもらう必要があると思う。
彼らができることが実はあるんですね。私はスタジアムの中での感染はそれほど心配していないけれども、実は会場のあり方、セレモニーも含めて、人々の意識に影響しますから。人々が一生懸命、家で、本当は外で飲んで肩を組んで応援したいのを抑えてということが期待されているのであれば、オリンピックの会場で、選手と運営の側が関係のない人がいわゆるお祭り騒ぎのような雰囲気をそこで見せるということ自体がそこでは(スタジアムの中では)ワクチンを打っているから感染は起きないけれども、その可能性がありますよね。
ただ人々がそれをテレビで見て、納得感…、だから私は参加者の数をなるべく減らしてくださいと。やるんだったら、競技に必要な人々には入ってもらって、そこでセレモニーというのかお祭りの雰囲気が始まったとたんに…。だから私は地域の人たちに理解と共感を得ることが大事だと。そのためにオリンピック組織委員会にはできることがあると思います。
(長妻議員)
祭典ですからね。オリンピック自体が。私が言う5つのリスクは無観客でもあるリスクです。たとえば7月に感染爆発やステージ4になった時、緊急事態宣言などを適切に打ち出せるのか。オリンピックによって歪みをもたらさないのか。政策をスパッとオリンピックがない時に比べて打ち出せるのか。これについては尾身先生、いかがですか。
(尾身氏)
これは今の日本の社会にとって求められ、おそらく多くの人々がそう思っていると思いますけど、オリンピックの開催に関わらず、つい最近の大阪のような、緊急事態宣言も出ていて厳しい状況は今も厳しいのですけど、ああいう状況を繰り返すことはオリンピックがあろうがなかろうが避けたいと思っている。
そういう意味ではオリンピックと今回の緊急事態宣言の解除は本来は関係ないわけですけど、だけどもし本当に(五輪を)やるのであれば私は、もし本当にやるのなら先生がおっしゃるように、緊急事態宣言下でのオリンピックなど絶対に避けるということを、もう、ある意味では今日からそういうふうなことで、6月20日頃に(緊急事態宣言を)解除するのかどうかも、解除するにしてもしなくても、その後の数ヶ月、ワクチンが多くの人に、9月とかまでのたったの後数カ月なんですよ。この間にそういう状況。緊急事態宣言を出すような状況を、その後はもう光が見えていますから、おそらく重症化は減ります。このワクチンは感染予防ができる。急にはそれでもこれまでのものをなんとか凌ぐもう先は見えている。トンネルの先に光が。
そういうことで私はそれまでなんとかしのぐ。ワクチン以外のテクノロジー、検査、水道のウイルス調査も。今まではお願いベースで来たけど、もうそういう時代は終わった。私は今日から、地域で感染を防御するために今まで以上にさらに強くする必要があると思います。
(長妻議員)
3つ目、人の流れがどうなるか。都会から地方へというのはどうですか。
(尾身氏)
私は3つのパターンがあると思います。人の流れが都会から地方へというのは一番強いと思います。お盆もあるし。政府はそのことを見込んでの対策…。例のパブリックビューイングなどはまた次のレベルですよね。もう一つは地方の人が試合場に行くというリスク。
私は一番リスクが高いのは今先生がおっしゃった帰省をするということ。そのことはもうわかっている。そのことで地方に感染が拡大したというエビデンスはいっぱいあるので、政府や組織委員会が早めに認識して明確な対策を打ち出していくことが重症者を出さない、被害を抑えるために絶対に必要なことだと思います。
(以下、略)
立憲民主党と無所属会派の山井和則議員から質問
(山井和則議員)
オリンピックを開催することで感染が拡大してコロナで無くなる人が増えるリスクはありますか。
(尾身氏)
オリンピックをやれば多くの人が国内で動きますよね。そういうことで、バブルの中ではなくて、地域…。当然、人々が動けば今までの経験で分かっているわけですよね。感染者が増える可能性があるのでその中で重症者の人も当然出てくる可能性もあるので、もし開くのであれば、バブルの中のことは元より、地域での感染をどうやって抑えるかということに注目するのがオリンピック委員会の人も政府の人も、そこに私はかなり注意を集中してしっかりした対策を取る必要があると思います。
(山井議員)
質問にお答えいただきたいのですが、ということは開催することでお亡くなりになる方も増えるリスクがあるということですか。
(尾身氏)
リスクがあるかないということであれば、当然…しっかりした感染対策を取らなければですね、今までもそうでしたね。いろいろな行事があって感染が増えて、緊急事態宣言を出した時もそういうことがあった。そういったことをこれからなんとか、ワクチンがしっかりとみんなの手に届くまでには、その上にさらにオリンピックをやるのであれば、リスクがありますから。それをないようにするには私は組織委員会、国には求められていることだと思っています。
(山井議員)
ということはオリンピックを開催することによってコロナでお亡くなりになる人が増えるリスクがあるということでよろしいですか。
(尾身氏)
ま、そういうことで…正確に言えば、オリンピックの開催にともなって、国内での、バブルの中、スタジアムの中ではなくて、国内で人流が増えて、接触が増えて、また飲み会なんかが、お祭りムードになって、いろいろなところで普段会わない人と飲み会なんてことをすると感染者が増えて、高齢者にも。そして重症者が増える。その中で死亡者がいることも当然ありうる。ありうるので私はそういうことがないようにぜひしていただきたいと思います。
(山井議員)
結果としてお亡くなりなる方が増えてしまったら、そういう場合、オリンピックは結果的に成功したと言えるんですか。
(尾身氏)
そこはですね、こういう立場ではそういうことがないように。やるのであればここは国が、組織委員会がやるという決定をするのであれば、そういうことがないように、これはしっかりと覚悟をもって様々な感染対策をすることが求められるのは当然だと思うんですね。
ですから成功かどうかというのは私は答える立場にありませんが、感染症のリスクをしっかりと評価して、それに対しては私どもはリスクを近々お考えを示したいと思いますけど、そのリスクを評価してもしやるんであれば、それをいかに最小限にして、そういうことがないように努力をする、これは普通のゲームではないですよね、全世界的な…。組織委員会もこうした日本の状況…。感染リスクがまだあるわけですよ。一定程度。
オリンピックのやり方次第で人々の意識が変わる。そのことを組織委員会の人も十分に理解して政府と組織委員会が一つの心になって、そういうことを避けるんだという強い気持ちになっていろいろなことをやっていただきたいと思います。
(山井議員)
提言を出されるという前提をお聞きしたいのですが、尾身会長の認識として日本政府はオリンピックの開催はすでに決定済みという前提で来週、提言を出すのか、決定の可否も含めて提言を出すのか、それによってまったく意味が違ってくる。いかがですか。
(尾身氏)
これはオリンピックをやるかやらないのかというのは何度も申し上げたように我々専門家が判断すべきではないし、できる立場にはないんです。
我々は今政府がどのように考えているのか正確には知らないのですけど、やらない場合にはリスクの評価は要らないですよね。やるということがもしあるのであれば、我々のこれは、WHOなんかもそうですが、専門家の一番大事な、というか唯一大事なことはリスクを評価するということですから、私どもは前から言っている、今回のリスクは一般のコミュニティーです。(リスクが)一番あるのは。それについて(リスクが)ありますから、やる時にはどう、そのことを踏まえて決定…、やるのであればどうリスクを減らすか、ということを十分に考慮してください、というのが我々の立場だし、それ以上でも以下でもない。
(山井議員)
国民の願いは死者が出るようなら止めてくれということではないのか。
尾身会長、たとえば緊急事態宣言下でもやるべきと思われますか。
(尾身氏)
今、私たちがどういうステージにいるかというと、今回、6月20日頃に今の緊急事態宣言を解除するかどうかという判断が求められていますよね。
その頃にはどうも、私の理解では、組織委員会が参加者の人数の上限を決めるというようなことになっていますよね。これが今、現実です。
そうなると我々専門家は、これは諮問委員会の中でそれについてはしっかり意見を述べて、で、解除した、あるいは、しない、いろいろな場合があると思いますが、オリンピックを開催するということよりも、8月9月になるとワクチンの接種率によって感染も次第に抑えられてくる。それまでの間に、絶対に、同じように大阪のような状況を作らないようにするということに私は政府や自治隊やすべての人が集中すべき。
緊急事態宣言が出たら、オリンピックは中止かという話ではなくてですね、ともかくその間にそういう状況を作らない手立てをすべてやる。それがわたしは重要だと思います。
(山井議員)
感染爆発して緊急事態宣言が出ても、オリンピックをやっていいのか。
(尾身氏)
これは…最終的に決断してもらうのは、組織委員会であり、政府ですね。
で、その際に緊急事態宣言云々というのはどういうことかというと、たとえば感染者が500と600の差というよりは、一番、我々考えなきゃいけないのは例えば大阪のような状況があるとしますよね。ステージ4という。これどういう状況かというと、これは医療に負荷がかかっている。ひっ迫している。ひっ迫しているというのはどういうことかというと、一般の診療、救急外来のようなところに支障が来ているということ。あるいは本当は病院でケアが必要な人が自宅にいるという状況。こういう状況が出た時にさらにオリンピックをやれば医療の負荷がさらにかかる。これはリスクです。今、東京は大阪のような状況ではないけれどもそうなればさらに負荷がかかりますよと申し上げる、それは申し上げようと思っています。ただ、それをもってどうするかというのは国と組織委員会が我々のリスク評価に応じてどんな形にするか決めてもらうのが筋だと思います。
(山井議員)
7月に感染拡大する可能性があるが、もしオリンピックの直前にリバウンドで感染拡大してもオリンピックはやるべきだと思いますか。
(尾身氏)
これは国は総理も安全な大会、国民の健康を守るとおっしゃってますよね。今、委員がおっしゃるように亡くなる人がどんどんどんどん出てくるような状況を作ろうとは、組織委員会も政府も思っていないと私は信じています。
そのために今、単にやるやらないではなくて…という決断も大事ですが、実はそれと同時に、あるいはそれ以上にこれから8月か9月くらいなのか分かりませんが多くの人にワクチンができるまでの間にどういう国内での対策を打つのか、そこに私があまり議論が国会でも行っていないと思います。ここに集中することが先生がおっしゃる、そういう状況を回避する…。一番、我々やらないといけないのがとにかく今日から明日から…もう6月20日はすぐ来ますから。その前後に今までのようなお願い、ステイホームでいいのか。もう人々はステイホームに飽きているわけです。
これについて、オリンピックをどうするかということと同時に感染対策をやるから、これとこれをやるから、もう少し国民のみなさん、と心の問題がありますから人間には。
そのことに政府には全力を集中して、いままでもやってきましたけど、この状況になんあら新しいことを追加しないと絶対に無理。その議論をすべきだと思います。
(中略)
(山井議員)
やはり提言には緊急事態宣言やステージ4ではオリンピックはできないと書くべきではないでしょうか。分科会も人が大勢亡くなってしまう事態に責任があるのでは。
(尾身氏)
分科会がどこまでできるのかは知りませんが、我々専門家の分科会であろうが、私たちは国内の感染対策をしっかりやっていただくための助言ですよね。感染者をなるべく少なくしたい、医療の負荷を落としたいとアドバイスするのが我々の仕事ですので、そういう中で今回、オリンピックをやれば必ず影響が出ますから。一定程度の。
やるんであればこういうことをやってくださいというのは当然。あとリスクについてはいろいろなリスクについては当然。それに対して、政府や組織委員会は合理的な判断を必ずしてくれると期待しています。
(山井議員)
緊急事態宣言やステージ用であればオリンピックをやることは危険だ、たくさんの人が亡くなる危険があるということは提言に書くべきでは。
(尾身氏)
あの、もちろんですね。ステージ4というのは今の大阪のような状況で医療がもう一般医療にも支障をきたしているという時にオリンピックをやればさらに負荷がかかるということは当然申し上げます。
これは感染症だけじゃなくて、熱中症もありますね。東京が少し前の大阪のような状況になれば、医療は本当にひっ迫してかなりの人が自宅でケアをしなくてはいけなくなるという時に、さらにオリンピックをやれば医療の負荷というか人々の健康に影響するのは当たり前ですよね。そういうリスクがありますよということは申し上げようと思っています。
(山井議員)
提言は分科会としての公式なものになるのか、それとも有志のものになるのか。もちろん公式なものの方が効果はあるはず。
(尾身氏)
これについてはこの前も申し上げましたが、今のところ分科会には正式な要請はないわけです。いろんなオプションがあるなかで専門家の人と相談しながら、なんらかの形で我々の立場で表明することがこれはプロとしての責任だと思います。受ける側の意見もあると思います。こういう状況の中でもっとも合理的な方法は何かということを検討しているところです。
2014年1月25日土曜日
東海テレビの「セシウムさん」事件が問いかけるもの
東海テレビのセシウムさん事件は、すごく大きな問題を投げかけていると考えます。
少し前の原稿ですが、朝日新聞社の「Journalism」に書いた原稿を載せておきます。
http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY201111090338.html
【放送】「セシウムさん」が加速させた視聴者のテレビ不信2011年11月10日
「けっきょく人の不幸は飯のタネだったのか!」
「『つながろう』とか『寄り添います』とか言ってたのはうわべだけか!」
強烈な言葉がネット上に書き込まれている。テレビ番組を送り出す側に対する怒り。テレビの言葉は本音を隠した建前だったのか。災害や事故はしょせん他人事だったのか。そんな不信の嵐だ。
東日本大震災を経て、私たちの生活上の安心感や住民の連帯感が崩れ落ちた。原発事故で政治や企業、専門家などの日本型システムの脆(もろ)さも露呈した。
そんななかテレビには何ができるのか。殺伐とした光景を変え、かすかな光を当てることができないのか。人間の温かみやつながりを取り戻せないのか? 放送を通じ、絆を取り戻すきっかけを作れないのか? そんなことを真剣に考えているテレビ人は少なくない。だが、そんな矢先に事件は起きた。
テレビ界を揺るがした東海テレビの「セシウムさん」事件だ。テレビ不信は加速をつけて広がっている。
事件は、8月4日午前に放送された東海テレビの情報番組「ぴーかんテレビ」の放送中に起きた。リハーサル用の仮テロップが誤って放送されてしまったのだ。仮テロップは、番組の終わりに視聴者プレゼントの当選者を発表するためのリハーサル用。本来は放送されないはずだった。岩手県産米ひとめぼれ10キロを贈る当選者名に「怪しいお米」「汚染されたお米」「セシウムさん」という悪ふざけの言葉が入っていた。放射能の影響で出荷の見通しに気をもむコメ農家の心情を逆撫でするような内容だった。
経過は単純だった。テロップ制作者が「怪しいお米」「セシウムさん」などと書き込んだ仮テロップを作成。あくまでリハーサル用で、実際の当選者発表時には具体的な氏名が入る予定だった。それでも不謹慎だと感じた他のスタッフがテロップ制作者に注意したものの修正されないまま放送に入った。
リハーサルはVTRで通販コーナーを放送している間にスタジオで行う。
いつもなら仮テロップは放送用とは別のテロップラインに並べられるが、その日は放送用ラインに並び、不慣れなタイムキーパーが送出。生放送にのってしまった。当初、放送事故が起きていることに誰も気づかず、テロップは23秒間も流れてしまった。
放送後、抗議の電話が殺到した。東海テレビは経営幹部ら6人に、外部委員の大学教授1人を加えた検証委員会を設置。委員会は関係者に事情を聴きまとめた検証報告書を作成。検証番組と併せて、8月30日に公表した。
検証報告書によると問題の仮テロップは「50代の男性テロップ制作者」が作成した。何度問いただしても彼は「ちょっとふざけた気持ち」「頭に浮かんだ言葉を書いた」という回答に終始したという。
●「ふざけた気持ち」の根源はどこから?
検証報告書などでは、こうした放送がなぜなされたのかという経過について、放送の仕組みやチェック体制、スタッフの動きなどを交えて細かく報告している。
さらに風評被害をもたらしたとして岩手県側への謝罪を繰り返し、岩手県の観光やコメ農家支援の特別番組を制作する方針も公表した。
こうすればミスを防げたはずというチェック上の不備をいくつか指摘する一方で、当の「テロップ制作者」については「著しく社会常識に欠けている」という一言だけで片付けている。なぜ「ふざけた気持ち」が生まれたのか。日頃の彼に対する周囲の関わりや職場で意見の違いなどを議論したのかといった「精神」の問題に関しては不明なままだ。検証報告ではあまり重点が置かれていない印象だ。放送の公共的使命について立ち位置の確認はどうだったかなど、関わった人間たちのジャーナリスト意識の検証こそが大事ではないかと思いながら検証番組を見たが、「ジャーナリスト」あるいは「ジャーナリズム」という言葉は一度も出てこなかった。
彼を含む制作者集団はテレビ画面の向こう側の人たちと、どういう精神や姿勢で向き合うべきだったのか。こうしたジャーナリストの「精神」やその「教育」に関わる検証は相当希薄だ。詳しくは東海テレビHPで報告書を読んでほしい(注1)。07年の関西テレビ「発掘!あるある大事典」捏造事件の調査報告書(注2)と比べ、チェック体制により比重が置かれ、制作者の自覚や人間力、内発的な努力への言及の少なさが際立つ。
そこが気になるのは、視聴者や取材相手に対して寄り添う精神は、ジャーナリストとして報道機関の根幹の気構えでありながら必ずしも重視されてこなかったという反省があるからだ。
かつて私が地方のテレビ局で駆け出しの記者だった頃、こんなことがあった。体調を崩して生活保護の申請窓口に行ったのに申請用紙を渡されなかった母子家庭の母親が餓死するという事件があった。
それをきっかけにニュース番組で生活保護に関して体験談を募集したら、「私も同じような目にあった」など報道部に連日かかってくる電話は大半が生活保護に関するものになった。多くは涙ながらの訴えで受話器を握りしめることが1時間、2時間を超えることもよくあった。
最初はこんな実態があるのは許せないと報道部の記者が総出で電話受けをしていたが、次第に熱心にメモをとるのは私だけになってしまった。同様の話が多かったのと他の仕事に支障が出たからだ。場所や状況が微妙に違っても内容は似たりよったり。それでは新たなニュースにならない。それだけ生活保護における申請拒否という実態が深刻だったわけだが、記者の多くは飽きて離れてしまった。
そんななか記者の数が少ない土曜日に電話がかかってきた。生活苦にもかかわらず長距離電話をかけてきた女性は涙声だ。長時間、話を聞く私に、20歳年上のデスクが大声を投げつけた。
「おい、いい加減そんな電話、さっさと切れよ」
さらに数十分、相手の話を聞いてから受話器を置いた私は憤然とデスクにつかみかかった。
「おい、そんな電話とは何だ。そんな電話とは。取り消せ!」
●寄り添う姿勢は画面の中だけ?
体験談をお寄せくださいと番組で告知したのはこちら側だ。向こうは自分のつらい境遇を知らせるためにわざわざ電話をかけている。それを「同じ話」と感じるのは、新しい切り口でないとニュースで取り上げにくいという、テレビ局側の勝手な都合だ。
まさに報道のご都合主義だった。「共感します」「寄り添います」と口にしながら、用が済むと見向きもしない。デスクを睨(にら)みつけながら、仕事が持つ欺瞞(ぎまん)性を自覚した。
やはり地方にいた頃、断崖を掘り抜いた国道トンネルが崩落して、中を走っていた路線バスなどの車両が乗客ごと押しつぶされる事故があった。断崖がさらに崩れる危険もあり、救出作業は難航。上部の巨大岩盤を爆破してから警察や消防が入った。刻々と状況が変わる大事故でもあり、全国ネットの緊急特番が組まれ生放送した。
記者もアナウンサーもカメラスタッフも現地やスタジオから不眠不休で伝え続けた。そして、最後に巻き込まれた20人全員が遺体で見つかったという情報が入り、数日間の特番は終わった。地元キャスターの親しみやすさもあって特番の視聴率はダントツだった。終了後、報道担当の上役が大量の缶ビールを抱えて現れた。フロアにいた全員に配った。
「よくやった。おかげで視聴率は圧勝だ。おめでとう! 乾杯だ!」
テレビモニターには遺体搬送の映像が続々と流れていた。犠牲者がいる大事故。なぜ「おめでとう」なのか。なぜ「乾杯」なのか。違和感と罪悪感でいっぱいだった。
取材を受けた犠牲者遺族らがこの場面を見たら、とても許さなかったろう。放送では相手に寄り添うふりをしつつ、本音の部分で内向きの論理で動く。そんな二面性を心に刻んだ。
「セシウムさん」のニュースを知った時、私が真っ先に思い出したのがこの光景だった。画面の向こう側の悲劇。本音でどこまで「わがこと」と受け止めているのか。根っこは同じだ。
私たちはニュースや情報番組で、苦しみの淵にいる人たちの境遇を頻繁に伝えている。最近なら東日本大震災や原発事故の被災者たちだ。現場でリポートする記者たちは、声をなくすほど圧倒的な災害の惨状に立ちすくみ、何を伝えるべきか、被災した人たちにどう声をかけるべきなのか、悩みながら取材している。できるだけ寄り添う形の報道ができないか突きつめて考える記者も多い。
しかし「セシウムさん」事件は、ニュースを伝える側の私たちが懸命に示そうとしている共感や同情に対しても、人々が強い疑念を抱く結果をもたらした。うわべだけでないのか。しょせん「飯のタネ」と考える二面性がないのか、と。
●プロの精神で欺瞞性を克服
そもそもジャーナリズムの仕事ではテレビに限らず、他人の不幸の現場を撮影し、話を聞き、伝えることが多い。
だからこそ事実とどう向き合うのかが問われる。他人事とせず、わがことと考えて取材し、世間から忘れられないように報道を続ける責務がある。そうした意識は、現場の記者ならば被害者らと向き合ううちに考えさせられる機会も少なくない。しかし、今回の「テロップ制作者」のように、広い意味でのジャーナリズムに関与する職種の人にまで、どのようにして意識を共有してもらうか、精神の深度をどう確認するかとなると難しい。
「テロップ制作者」は、現場との距離が離れているため、テレビの欺瞞性・二面性の本音が現れやすかったのだ。それが今回の事件の本質だろう。
ジャーナリストは、個々の事実を前にして、わが身に置き換え、考えていく職業だ。もしも「他人事」にしてしまうなら、もうジャーナリストではない。だから共感力をつけるのは職業倫理でありプロの職業精神である。
「他人事」でなく「共感」。国民の知る権利を基本にした放送の公共性を自覚することから始まる。
理想を言うなら放送に関わるすべての職種の人間がジャーナリストたれ、という点に尽きる。こうした意識を徹底させるための仕組みを作っていく必要がある。検証報告書を読む限り、この問題がどこまで意識されているかについてかなり疑問に感じる。
ちなみに放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は9月に出した「提言」で、制作現場での議論の大切さを訴えた(注3)。「話し合う」ことを通じ、互いの精神を鍛え合う以外に根本的な策はないという主張だ。ことの神髄を見据えた卓見だと思う。(「ジャーナリズム」11年11月号掲載)
(注1)「ぴーかんテレビ」検証報告書(11年8月30日、東海テレビ放送「ぴーかんテレビ」検証委員会) http://tokai-tv.com/press/pdf/2011/110830.pdf
(注2)調査報告書(07年3月23日、「発掘!あるある大事典」調査委員会) http://www.ktv.jp/info/grow/pdf/070323/chousahoukokusyo.pdf
(注3) 東海テレビ放送『ぴーかんテレビ』問題に関する提言(11年9月22日、BPO放送倫理検証委員会) http://www.bpo.gr.jp/kensyo/decision/011-020/20110922_tokai.pdf
◇
水島宏明(みずしま・ひろあき)
テレビ・ジャーナリスト、ドキュメンタリー演出家。1957年、北海道生まれ。主な番組に「喰いものにされたキヨシさん」「カナリアの子供たち」「奇跡のきょうしつ」。著書に『子どもの貧困白書』(共著)など。
少し前の原稿ですが、朝日新聞社の「Journalism」に書いた原稿を載せておきます。
http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY201111090338.html
【放送】「セシウムさん」が加速させた視聴者のテレビ不信2011年11月10日
「けっきょく人の不幸は飯のタネだったのか!」
「『つながろう』とか『寄り添います』とか言ってたのはうわべだけか!」
強烈な言葉がネット上に書き込まれている。テレビ番組を送り出す側に対する怒り。テレビの言葉は本音を隠した建前だったのか。災害や事故はしょせん他人事だったのか。そんな不信の嵐だ。
東日本大震災を経て、私たちの生活上の安心感や住民の連帯感が崩れ落ちた。原発事故で政治や企業、専門家などの日本型システムの脆(もろ)さも露呈した。
そんななかテレビには何ができるのか。殺伐とした光景を変え、かすかな光を当てることができないのか。人間の温かみやつながりを取り戻せないのか? 放送を通じ、絆を取り戻すきっかけを作れないのか? そんなことを真剣に考えているテレビ人は少なくない。だが、そんな矢先に事件は起きた。
テレビ界を揺るがした東海テレビの「セシウムさん」事件だ。テレビ不信は加速をつけて広がっている。
事件は、8月4日午前に放送された東海テレビの情報番組「ぴーかんテレビ」の放送中に起きた。リハーサル用の仮テロップが誤って放送されてしまったのだ。仮テロップは、番組の終わりに視聴者プレゼントの当選者を発表するためのリハーサル用。本来は放送されないはずだった。岩手県産米ひとめぼれ10キロを贈る当選者名に「怪しいお米」「汚染されたお米」「セシウムさん」という悪ふざけの言葉が入っていた。放射能の影響で出荷の見通しに気をもむコメ農家の心情を逆撫でするような内容だった。
経過は単純だった。テロップ制作者が「怪しいお米」「セシウムさん」などと書き込んだ仮テロップを作成。あくまでリハーサル用で、実際の当選者発表時には具体的な氏名が入る予定だった。それでも不謹慎だと感じた他のスタッフがテロップ制作者に注意したものの修正されないまま放送に入った。
リハーサルはVTRで通販コーナーを放送している間にスタジオで行う。
いつもなら仮テロップは放送用とは別のテロップラインに並べられるが、その日は放送用ラインに並び、不慣れなタイムキーパーが送出。生放送にのってしまった。当初、放送事故が起きていることに誰も気づかず、テロップは23秒間も流れてしまった。
放送後、抗議の電話が殺到した。東海テレビは経営幹部ら6人に、外部委員の大学教授1人を加えた検証委員会を設置。委員会は関係者に事情を聴きまとめた検証報告書を作成。検証番組と併せて、8月30日に公表した。
検証報告書によると問題の仮テロップは「50代の男性テロップ制作者」が作成した。何度問いただしても彼は「ちょっとふざけた気持ち」「頭に浮かんだ言葉を書いた」という回答に終始したという。
●「ふざけた気持ち」の根源はどこから?
検証報告書などでは、こうした放送がなぜなされたのかという経過について、放送の仕組みやチェック体制、スタッフの動きなどを交えて細かく報告している。
さらに風評被害をもたらしたとして岩手県側への謝罪を繰り返し、岩手県の観光やコメ農家支援の特別番組を制作する方針も公表した。
こうすればミスを防げたはずというチェック上の不備をいくつか指摘する一方で、当の「テロップ制作者」については「著しく社会常識に欠けている」という一言だけで片付けている。なぜ「ふざけた気持ち」が生まれたのか。日頃の彼に対する周囲の関わりや職場で意見の違いなどを議論したのかといった「精神」の問題に関しては不明なままだ。検証報告ではあまり重点が置かれていない印象だ。放送の公共的使命について立ち位置の確認はどうだったかなど、関わった人間たちのジャーナリスト意識の検証こそが大事ではないかと思いながら検証番組を見たが、「ジャーナリスト」あるいは「ジャーナリズム」という言葉は一度も出てこなかった。
彼を含む制作者集団はテレビ画面の向こう側の人たちと、どういう精神や姿勢で向き合うべきだったのか。こうしたジャーナリストの「精神」やその「教育」に関わる検証は相当希薄だ。詳しくは東海テレビHPで報告書を読んでほしい(注1)。07年の関西テレビ「発掘!あるある大事典」捏造事件の調査報告書(注2)と比べ、チェック体制により比重が置かれ、制作者の自覚や人間力、内発的な努力への言及の少なさが際立つ。
そこが気になるのは、視聴者や取材相手に対して寄り添う精神は、ジャーナリストとして報道機関の根幹の気構えでありながら必ずしも重視されてこなかったという反省があるからだ。
かつて私が地方のテレビ局で駆け出しの記者だった頃、こんなことがあった。体調を崩して生活保護の申請窓口に行ったのに申請用紙を渡されなかった母子家庭の母親が餓死するという事件があった。
それをきっかけにニュース番組で生活保護に関して体験談を募集したら、「私も同じような目にあった」など報道部に連日かかってくる電話は大半が生活保護に関するものになった。多くは涙ながらの訴えで受話器を握りしめることが1時間、2時間を超えることもよくあった。
最初はこんな実態があるのは許せないと報道部の記者が総出で電話受けをしていたが、次第に熱心にメモをとるのは私だけになってしまった。同様の話が多かったのと他の仕事に支障が出たからだ。場所や状況が微妙に違っても内容は似たりよったり。それでは新たなニュースにならない。それだけ生活保護における申請拒否という実態が深刻だったわけだが、記者の多くは飽きて離れてしまった。
そんななか記者の数が少ない土曜日に電話がかかってきた。生活苦にもかかわらず長距離電話をかけてきた女性は涙声だ。長時間、話を聞く私に、20歳年上のデスクが大声を投げつけた。
「おい、いい加減そんな電話、さっさと切れよ」
さらに数十分、相手の話を聞いてから受話器を置いた私は憤然とデスクにつかみかかった。
「おい、そんな電話とは何だ。そんな電話とは。取り消せ!」
●寄り添う姿勢は画面の中だけ?
体験談をお寄せくださいと番組で告知したのはこちら側だ。向こうは自分のつらい境遇を知らせるためにわざわざ電話をかけている。それを「同じ話」と感じるのは、新しい切り口でないとニュースで取り上げにくいという、テレビ局側の勝手な都合だ。
まさに報道のご都合主義だった。「共感します」「寄り添います」と口にしながら、用が済むと見向きもしない。デスクを睨(にら)みつけながら、仕事が持つ欺瞞(ぎまん)性を自覚した。
やはり地方にいた頃、断崖を掘り抜いた国道トンネルが崩落して、中を走っていた路線バスなどの車両が乗客ごと押しつぶされる事故があった。断崖がさらに崩れる危険もあり、救出作業は難航。上部の巨大岩盤を爆破してから警察や消防が入った。刻々と状況が変わる大事故でもあり、全国ネットの緊急特番が組まれ生放送した。
記者もアナウンサーもカメラスタッフも現地やスタジオから不眠不休で伝え続けた。そして、最後に巻き込まれた20人全員が遺体で見つかったという情報が入り、数日間の特番は終わった。地元キャスターの親しみやすさもあって特番の視聴率はダントツだった。終了後、報道担当の上役が大量の缶ビールを抱えて現れた。フロアにいた全員に配った。
「よくやった。おかげで視聴率は圧勝だ。おめでとう! 乾杯だ!」
テレビモニターには遺体搬送の映像が続々と流れていた。犠牲者がいる大事故。なぜ「おめでとう」なのか。なぜ「乾杯」なのか。違和感と罪悪感でいっぱいだった。
取材を受けた犠牲者遺族らがこの場面を見たら、とても許さなかったろう。放送では相手に寄り添うふりをしつつ、本音の部分で内向きの論理で動く。そんな二面性を心に刻んだ。
「セシウムさん」のニュースを知った時、私が真っ先に思い出したのがこの光景だった。画面の向こう側の悲劇。本音でどこまで「わがこと」と受け止めているのか。根っこは同じだ。
私たちはニュースや情報番組で、苦しみの淵にいる人たちの境遇を頻繁に伝えている。最近なら東日本大震災や原発事故の被災者たちだ。現場でリポートする記者たちは、声をなくすほど圧倒的な災害の惨状に立ちすくみ、何を伝えるべきか、被災した人たちにどう声をかけるべきなのか、悩みながら取材している。できるだけ寄り添う形の報道ができないか突きつめて考える記者も多い。
しかし「セシウムさん」事件は、ニュースを伝える側の私たちが懸命に示そうとしている共感や同情に対しても、人々が強い疑念を抱く結果をもたらした。うわべだけでないのか。しょせん「飯のタネ」と考える二面性がないのか、と。
●プロの精神で欺瞞性を克服
そもそもジャーナリズムの仕事ではテレビに限らず、他人の不幸の現場を撮影し、話を聞き、伝えることが多い。
だからこそ事実とどう向き合うのかが問われる。他人事とせず、わがことと考えて取材し、世間から忘れられないように報道を続ける責務がある。そうした意識は、現場の記者ならば被害者らと向き合ううちに考えさせられる機会も少なくない。しかし、今回の「テロップ制作者」のように、広い意味でのジャーナリズムに関与する職種の人にまで、どのようにして意識を共有してもらうか、精神の深度をどう確認するかとなると難しい。
「テロップ制作者」は、現場との距離が離れているため、テレビの欺瞞性・二面性の本音が現れやすかったのだ。それが今回の事件の本質だろう。
ジャーナリストは、個々の事実を前にして、わが身に置き換え、考えていく職業だ。もしも「他人事」にしてしまうなら、もうジャーナリストではない。だから共感力をつけるのは職業倫理でありプロの職業精神である。
「他人事」でなく「共感」。国民の知る権利を基本にした放送の公共性を自覚することから始まる。
理想を言うなら放送に関わるすべての職種の人間がジャーナリストたれ、という点に尽きる。こうした意識を徹底させるための仕組みを作っていく必要がある。検証報告書を読む限り、この問題がどこまで意識されているかについてかなり疑問に感じる。
ちなみに放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は9月に出した「提言」で、制作現場での議論の大切さを訴えた(注3)。「話し合う」ことを通じ、互いの精神を鍛え合う以外に根本的な策はないという主張だ。ことの神髄を見据えた卓見だと思う。(「ジャーナリズム」11年11月号掲載)
(注1)「ぴーかんテレビ」検証報告書(11年8月30日、東海テレビ放送「ぴーかんテレビ」検証委員会) http://tokai-tv.com/press/pdf/2011/110830.pdf
(注2)調査報告書(07年3月23日、「発掘!あるある大事典」調査委員会) http://www.ktv.jp/info/grow/pdf/070323/chousahoukokusyo.pdf
(注3) 東海テレビ放送『ぴーかんテレビ』問題に関する提言(11年9月22日、BPO放送倫理検証委員会) http://www.bpo.gr.jp/kensyo/decision/011-020/20110922_tokai.pdf
◇
水島宏明(みずしま・ひろあき)
テレビ・ジャーナリスト、ドキュメンタリー演出家。1957年、北海道生まれ。主な番組に「喰いものにされたキヨシさん」「カナリアの子供たち」「奇跡のきょうしつ」。著書に『子どもの貧困白書』(共著)など。
2014年1月13日月曜日
「成人の日」未明に見たドキュメンタリー
昨夜放送された日本テレビの「NNNドキュメント」はすごい内容だった。
亡くなった映画監督・大島渚が制作したドキュメンタリーをそのまま放送し、その後で、是枝裕和や田原総一郎らが作品の今日的な意義について話していた。
戦争中に「日本兵」として命をかけて、両目や手を失って障害者になった在日韓国人の兵士たちが、「日本人なみの軍人恩給」を、と政府に求めて、陳情に歩く。元の兵隊同士が集まると、こらえきれない怒りが爆発し、途中で切断されたままの手をむき出し、ふだんはかけているサングラスを外して眼球のない両目を見せる。
素材もむき出し。音楽もむき出し。ナレーションもむき出し。
怒りがほとばしっている。
是枝が「かつては20%の声であってもテレビがそれを伝え、多様性があった。今はそれはない」と言う。
その通りだ。大島作品をそのまま放送し、是枝らの見方を挿入することで、今の時代の政治やテレビ状況を照射する番組になっていた。
そのことに気がつく人は気づく。
制作者が「覚悟」を持って作っている、というその迫力が画面から出ていた。
制作スタッフの勇気に拍手を送りたい。
亡くなった映画監督・大島渚が制作したドキュメンタリーをそのまま放送し、その後で、是枝裕和や田原総一郎らが作品の今日的な意義について話していた。
戦争中に「日本兵」として命をかけて、両目や手を失って障害者になった在日韓国人の兵士たちが、「日本人なみの軍人恩給」を、と政府に求めて、陳情に歩く。元の兵隊同士が集まると、こらえきれない怒りが爆発し、途中で切断されたままの手をむき出し、ふだんはかけているサングラスを外して眼球のない両目を見せる。
素材もむき出し。音楽もむき出し。ナレーションもむき出し。
怒りがほとばしっている。
是枝が「かつては20%の声であってもテレビがそれを伝え、多様性があった。今はそれはない」と言う。
その通りだ。大島作品をそのまま放送し、是枝らの見方を挿入することで、今の時代の政治やテレビ状況を照射する番組になっていた。
そのことに気がつく人は気づく。
制作者が「覚悟」を持って作っている、というその迫力が画面から出ていた。
制作スタッフの勇気に拍手を送りたい。
「反骨のドキュメンタリスト 大島渚 『忘れられた皇軍』という衝撃」 55分枠
放送 | : | 1月12日(日) |
24:50~ | ||
ナレーター | : | 永田亮子 |
制作 | : | 日本テレビ |
再放送 | : | 1月19日(日)11:00~ |
BS日テレ | ||
1月19日(日)18:00~ | ||
CS「日テレNEWS24」 |
2013年1月、大島渚監督が逝った。「大島渚は不器用で、反国家むきだしにして体を張って
闘っていた」そんな大島の魂がこめられたドキュメンタリーが、日本テレビに遺されている。『忘れられた皇軍』(1963年放送)
日本軍属として戦傷を負い、戦後、韓国籍となった旧日本軍の兵士たち。片腕と両眼を失った白衣の傷痍軍人が何の補償も受けられぬまま、街頭で募金を集め
る…大島は一体何を訴えようとしたのか?当時の制作スタッフや妻・小山明子の証言からひもとき、テレビと映画2つのフィールドで活躍する是枝裕和監督や同
時代を生きたジャーナリスト田原総一朗と共に考える。50年を経た今、大島の映像は少しも古びることなく、見る者を激しく揺さぶる。テレビを考え抜いた映
画監督、大島の遺言とは?
2014年1月3日金曜日
1月3日の朝日新聞の1面トップは・・・
元旦の新聞を見れば、その新聞の「一年」が分かるとおととい書いたが、2日の新聞休刊日をはさんだ1月2日の紙面もその新聞のありようをさぐる上で重要だ。「正月モード」の色が濃い、元日と違って、「ふだんの日モード」に近いなかで「その新聞がこれから力を入れるテーマ」が反映されるからだ。
朝日新聞の一面トップは元日に続き、「教育2014 世界は 日本は」の第2回目で
『格差を超える』。
大見出しは「暮しのせいにしない」とあり、「学校を拠点に立ち向かう」という中見出しも。
大阪府茨木市立郡山小学校で貧困家庭の子どもが多いなかで、校長以下、教職員が総掛かりで子どもの学習指導を続けた結果、成績が伸びたというエピソードを伝えている。
単に勉強を教える体制を充実させただけでなく、「朝ご飯を食べたか」などの生活もチェックするようにした。
校長が「一人の子どもも切り捨てたくないと、あの手この手で励ます続けた結果」だという。
2面では、大見出しが「断つ 貧困の連鎖」とあり、「1ドル投資 7ドルリターン」というアメリカでの貧困家庭向けの幼稚園の充実やドイツでの移民家庭の子ども向けの幼稚園教育が紹介される。合わせて日本の就学前教育機関への公的支出はOECDshokoku de
最低レベルだという情報も伝える。
イギリスでも民間の力を使った「公設民営校」が貧困地区の学校再生に大きく貢献した取り組みが紹介される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140103-00000001-asahik-soci
良い話だし、良いテーマだ。私自身も「貧困の連鎖を断つ」「子どもの貧困を解決しよう」とする取り組みを取材して報道してきた人間だ。
子どもの貧困を解決して社会を夢のある「より良いもの」にしていこうというのテーマ設定は好感が持てる。
ただ、記事そのものが迫力がない。人間の体温が伝わってこないのだ。
「紹介」に終わってしまって、感情や思いが伝わって来ないのだ。
おそらく、学校を運営する学校長や自治体側の目線で記事を書いているからだろう。
実際にそこに通う子どもたちや保護者たち、あるいは一線の教師たちの姿が見えないせいだろう。
そういう意味では貧困を伝えるジャーナリズムとは、どのように伝えるべきかという伝え手の「腕」にもかかわってくる。
そういう意味では、ちょっと残念な記事だ。記事を書く人、記事をチェックする人はもう少し頑張ってほしい。
2014年1月2日木曜日
食品に混入された有機リン農薬「マラチオン」の”毒性”について自ら調べないマスコミ(Yahoo ニュース個人 2014年1月2日 19時42分)
クリームコロッケなどの冷凍食品に農薬が混入されていた事件。
警察による捜査で工場での製造過程で農薬が混入する可能性は低くなり、工場内に出入りできる何者かが混入させた疑いが強まっている。
犯人は誰なのか。目的は何だったのか。どうやって混入させたのか。
それらは今後の捜査の進展を待つより他はない。
それよりも、ここまでのテレビや新聞の一連の報道を見てきて気になったことがある。
混入された有機リン農薬「マラチオン」の毒性に関する報道があまり詳しくないのだ。
流通している食品がどこまで危険なものなのかは、読者・視聴者が真っ先に知りたい情報のはずなのに、「会社側の発表」を垂れ流したような報道が目立つ。
私も以前、農薬の毒性に関するドキュメンタリーを取材したことがあるが、「マラチオン」などの有機リン農薬は、毒ガスのサリンとのいわば親戚のようなもので、生物の神経細胞に大きな影響を与える。
私が取材した有機リン農薬による慢性中毒の患者は「化学物質過敏症」を発症して、日常生活をとても制約された生活を送っていた。
そうした問題も見通して、この事件の報道が行われているとはとても言えない。
報道を振り返ってみよう。
マルハニチロ、回収は630万パック 冷凍食品から農薬
朝日新聞のこの記事など、「低毒性で急性の毒性や発がん性などはないという」と記しているが、朝日新聞の記者が専門家にあたって検証した感じではない書きっぷりだ。
混入されたマラチオンは本当に毒性が低いのか、読者がもっとも気にする点について、あまりに粗雑な書き方ではないか。
マルハニチロの冷凍食品から農薬 630万袋回収、外部混入の可能性も
この産経新聞の記事も「(体重20キロ)が1度に60個のコロッケを食べないと毒性が発症しないレベルという」として、会社側の発表をそのまま載せている。
同じ産経新聞の記事でこんな解説もある。
マルハニチロの説明を受けて、専門家や専門機関にも問い合わせてみたものの「命にかかわる量ではない」ということが強調されている。
ところがマルハニチロの説明が「過小評価」だと分かる。
農薬混入 回収94品目640万袋に マルハニチロ 毒性を過小評価
日本経済新聞も以下のように書く。
コロッケ少量で健康被害も マルハ側は過小評価 厚労省が注意喚起
この記事にあるようにマルハニチロの訂正会見を受けて「最も濃度が高いコロッケは子供が8分の1個を食べると症状が出る可能性がある」というのが1月2日現在のマスコミ各社による「マラチオンの毒性」に関する説明だ。
しかし、それだけなのだろうか?
以前、農薬の毒性について取材した経験でいうと、あくまでそれは「急性中毒」に関するものでしかない。
「化学物質過敏症」を含む「慢性中毒」に関する説明ではない。
私の取材した経験では、母親の体内にいる時に空中散布された有機リン殺虫剤で、重症の化学物質過敏症になった小学生が、
学校の近隣の梅林で撒かれた有機リン殺虫剤が風に乗ってきたために目の前で倒れてしまったことがあった。
呼吸も困難だったが、有機リン中毒で点滴を受けて回復した。
ただし、この子どもが化学物質過敏症だったために、ごく微量の有機リン農薬にも反応したのだった。
その他のほとんどの子どもは近隣で殺虫剤が撒かれたことさえ、気がつかなかった。
それほど、有機リン殺虫剤による症例は個人差がある。
しかし、現実にひどく反応する子どもたちは存在するのだ。
特に慢性毒性については学者の間でもどちらかといえば「過小」に評価する専門家と「過大」に評価する専門家がいる。
前者は農薬メーカー寄りの専門家たちに多い。
後者は化学物質過敏症の研究をしている医師などに多い。
前者について言えば、放射能による健康影響に関して少なく評価しがちな人たちが原発メーカー寄りなのと同じような構図がある。
このことを踏まえて、専門家だからとコメントを取って良し、とするだけなら、取材として不十分だ。
有機リン農薬「マラチオン」による子どもの神経に対する毒性については、北里大学の石川哲名誉教授による研究が有名だ。
石川名誉教授は「マラチオン」が空中散布されていた長野県佐久市の子どもたちの症例などを研究し、有機リン殺虫剤が子どもの神経に症状を引き起こすことを証明し、遠山椿吉記念 第3回 食と環境の科学賞 功労賞 を受けている。
有機リン農薬は、特に赤ん坊や幼い子どもの神経の発達に悪影響を与えることが分かっている。
マスコミは犯人を追及することをも大事だが、被害の広がりが本当にないのかを検証する責任もある。
3・11以降の原発報道に関してもマスコミの課題になった、政府や会社側の発表を鵜呑みにせず、自らの力で調査する「調査報道」がこうした事件の報道でも求められている。
『紅白歌合戦』での『あまちゃん』再来 足立ユイ役の橋本愛さんも「奇跡」とコメント
『紅白歌合戦』での『あまちゃん』の復活劇。
ドラマの本編では東日本大震災では実現しなかったことがいくつもあった。
天野アキとGMT5によるステージでの共演も大震災で実現しなかった。
足立ユイの「東京に出てアイドルになる」という夢も大震災で実現しないままになった。
ドラマの本編は、それを「乗り越えて」いく若者たちのジャンプする姿で終わるので、もちろん想像できるのだけれども、どこかでステージで歌っているユイちゃんの姿を想像したりもしていた。
で、『紅白』での『あまちゃん』コーナーに戻ると、天野アキと足立ユイの共演が実現されていて、まさにドラマの中のユイちゃんの「夢」が現実のものになっていた。
視聴者にとってはうれしい時間が流れた。
詳しくはヤフーニュース(個人)に書いたので、こちらを見てください。
↓ヤフーニュース(個人)
で、視聴者だけかと思っていたら、足立ユイを演じて『紅白』で歌った橋本愛さんのブログを見つけた。
演じていた人。
制作していた人。
地元の人。
テレビの前の人。
それらが同時に「奇跡」を感じていたのだとしたら、それはとても幸福な番組だということが言えると思う。
↓
橋本愛のブログ
「どれだけ奇跡を目の当たりにさせてくれるの!と
この作品に寄せられた愛の大きさを
多分初めて体感できた一夜でした。
自分がその一部であることを強く、嬉しく思いました。」(橋本愛さんのブログから)
夢が少なくなったテレビで、滅多にない出来事だったことだけは間違いない。
(yahoo ニュース個人より転載)【新聞のミカタ】元日の「一面トップ」を検証 そこから見える新聞各紙の2014年の”ヤル気”と”覚悟”
私は以前、朝のテレビ情報番組で「新聞の解説」の仕事をやっていた。
『新聞のミカタ』というコーナーだった。
数年間、これをやってみて分かったことがある。
つまり、それぞれの新聞社が「今の時代でもっとも重要なテーマ」と認識する問題が「元日の一面トップ」に載るのである。
元日の一面トップの記事に、その日から始まるシリーズ連載の第一弾が載ることも多い。その時代や何が問題だと考えているかが一面トップの記事から伝わってくる。元日の記事を見れば、新聞社のヤル気と覚悟が分かってくるのだ。
では、2014年の元日、1月1日水曜日に新聞各紙は何を一面トップに持ってきたのかを振り返ってみたい。
この記事の重点は「沖縄県・尖閣諸島を含む東シナ海や南シナ海での制空権・制海権の確保に向けて攻撃力の強化を目指すものだ。新型装備の増強に加え、運用の近代化が実現すれば、日本や米国の脅威となるのは必至だ」という部分にある。
日本の自衛隊の仮想敵である中国軍について、中国軍の複数の幹部を取材して脅威の実態を探った記事だ。
文章として書かれてはいないが、日本の防衛体制は現状で大丈夫なのか?と読者に思わせるに十分な内容だ。
読売新聞にとって、日本の国防こそが重要課題であり、特に中国軍の動きには目を光らせていくぞという覚悟が読み取れる。
ただ、外交交渉では、相手先と水面下で妥協点を探るのは通常行われていることなので、それがけしからんとする論調は外交交渉術をあえて知ら
ないふりしているようでかなり意図的な印象だ。また、当時の「日本政府の関係者」だけに取材するという取材の薄さも気になる。2014年もこれまで同様に
一点突破の路線で、やっていくということなのだろう。
iPS細胞ひとつ考えても、そうした技術は確かに今後のビジネスのカギを握る一方、一歩間違えると「人間としてどこまで許されるのか」とい う倫理的な問題を突きつける。そうした時代にいるということを元日に伝える、というスケールの大きい世界観が日経新聞らしい。この連載が今後どこまで広 がっていくのが興味深いが、経済専門新聞としてはこうした方向性もありだろう。
安 倍政権が進めようとしている教育改革を前提として、どこが日本の教育の遅れている点がを先進地域の現状を紹介して行こうという試みだ。グローバルな人材を 育成するにはどうすればよいのか、と課題を探る連載で、韓国の済州島やアラブ首長国連邦のアブダビ、さらには長野県の軽井沢などに出来つつあある「グロー バル人材育成学校」を取材する。
朝日新聞として、「教育のグローバル化」が最重要課題だと認識しているのだろうか。
日本経済の将来に結びつくテーマであるので経済専門紙なら理解できるが、一般紙としてはどうなのか?
他にやるべきテーマがあるのではないか?
日本のジャーナリズム界で朝日新聞がこれまで果たしてきた役割を考える時、物足りなさを感じざるえない。
こちらも電力会社と地元自治体との密約を暴いたスクープ。
東京新聞の元日の一面の記事からは2つのことが読み取れる。
それは東京新聞が2014年も当局が発表する情報を元にした「発表報道」ではなく、記者個人の問題意識を重視した「調査報道」に徹するという覚悟を持っているということ。
さらに、東京新聞としては、原発の問題を報道の核として位置づけていくという覚悟を持っているということだ。
報道された内容も見事だったが、他の新聞とは明確に一線を画した姿勢が明快だった。
こうやって読み比べてみると、東京新聞のクリアさが明らかな一方で、新聞社としての覚悟をどこに置くのか不明な朝日新聞の一面トップの曖昧 さがとても気になる。毎日や読売の問題意識と比べても、芯が通っていない。リーディングペーパーとしての朝日新聞の立場を考えると不安を覚える。「報道の 自由」を制約するのが明らかな特定秘密保護法が誕生した現在、ジャーナリズムとして何をどう報道していくのかは国民の「知る権利」に直結する。その覚悟が 希薄な印象だ。
一年の計は元旦にあり、とよく言われる。
読者もぜひ正月の新聞記事を読み比べてみて、自分が購読する新聞を精査してほしい。
毎日毎日、新聞各紙を読み比べてみて、スタジオで気になった記事を解説する仕事だった。
数年間、これをやってみて分かったことがある。
新聞社では、日々の新聞の”一面の右上の記事”、つまり「一面トップ」の記事へのこだわりがとても強いということだ。
さらに毎年、正月、特に元日の一面トップにどんな記事を載せるかで、その新聞社がその時代その時代で「何が問題か」を各新聞が認識しているか反映されるということも分かった。
元日の一面トップの記事に、その日から始まるシリーズ連載の第一弾が載ることも多い。その時代や何が問題だと考えているかが一面トップの記事から伝わってくる。元日の記事を見れば、新聞社のヤル気と覚悟が分かってくるのだ。
では、2014年の元日、1月1日水曜日に新聞各紙は何を一面トップに持ってきたのかを振り返ってみたい。
読売新聞は・・・
読売新聞は、一面トップの見出しは『中国軍 有事即応型に』『陸海空を統合運用』『機構再編案 7軍区を5戦区に』とある。この記事の重点は「沖縄県・尖閣諸島を含む東シナ海や南シナ海での制空権・制海権の確保に向けて攻撃力の強化を目指すものだ。新型装備の増強に加え、運用の近代化が実現すれば、日本や米国の脅威となるのは必至だ」という部分にある。
日本の自衛隊の仮想敵である中国軍について、中国軍の複数の幹部を取材して脅威の実態を探った記事だ。
文章として書かれてはいないが、日本の防衛体制は現状で大丈夫なのか?と読者に思わせるに十分な内容だ。
読売新聞にとって、日本の国防こそが重要課題であり、特に中国軍の動きには目を光らせていくぞという覚悟が読み取れる。
毎日新聞は・・・
さて、毎日新聞の一面トップの見出しは、『中国、防空圏3年前提示』『日本コメント拒否』『非公式会合 発表と同範囲』。
毎
日新聞の記事は、読売新聞と同じように、中国との関係が緊張をはらみ、予期せぬ衝突が起きて戦争突入の可能性もある現状を強く意識している。昨年11月に
一方的に発表した防空識別圏について、中国が3年前に非公式会合で日本側に提示していたという事実を伝える。中国側の「野心」を暴く一方で、日本側もこの
情報を防衛省内や外務省、官邸などに上げてうまく処理できた可能性があったこともうかがわせている。
読売新聞のように中国側だけを取材したものでなく、中国軍、日本の防衛省、自衛隊のやりとりを多角的に取材した深みのある記事だ。
毎日新聞の記事は「隣人 日中韓」という連載を昨年末から始めていて、その第2弾としての立派なスクープといえる。
3面の「隣人 日中韓」の記事には『予期せぬ衝突 回避策急務』『緊張「いつ起きても…」』『交渉 靖国参拝で遠のく』という見出しが並び、自衛隊と中国軍との間で現場レベルの話し合いやホットラインが出来つつあったのに、首相の靖国神社参拝などの「政治」がその動きを止めてしまったことを報じている。
毎日新聞からは、こうした日中韓の3カ国の関係を「複眼的に」見つめていこうとする「覚悟」が伝わってくる。読売が対中国で「単眼的」なのと比べると物事を単純化しないで相手国の立場でも考えようとする姿勢が見える。
産経新聞は・・・
産経新聞の一面トップは、『河野談話 日韓で「合作」』『原案段階から すり合わせ』『関係者証言 要求受け入れ修正』というものだ。
平成5年の「河野洋平官房長官談話」が、原案の段階から韓国側とすり合わせていた「合作」だったとし、当時の政府関係者が証言したという内容の記事だ。2面で「河野談話の欺瞞性はもう隠しようがなくなった」と書く。日本側が自分自身で考えて発表したものでなく、韓国側と妥協点を探っていた産物だったので「欺瞞」だという展開。
産経新聞が2014年も従軍慰安婦問題など「歴史認識」に重点を置いていく、というヤル気と覚悟は伝わってくる。
日本経済新聞は・・・
日本経済新聞の一面トップは『空恐ろしさを豊かさに』という見出し。『常識超え新しい世界へ』という見出しも続く。
元日から始まった「リアルの逆襲」という連載の第1回の記事だ。
一度、絶滅した動物を蘇らせるようなバイオの科学が「空恐ろしい」一方で、ビジネスにもつながる面を強調する。
それはネットを使って、人間を格付けする技術も同様だ。ネット上の「いいね!」が多い人間ほど、政治でもビジネスでも高く評価される時代になりつつある。
iPS細胞ひとつ考えても、そうした技術は確かに今後のビジネスのカギを握る一方、一歩間違えると「人間としてどこまで許されるのか」とい う倫理的な問題を突きつける。そうした時代にいるということを元日に伝える、というスケールの大きい世界観が日経新聞らしい。この連載が今後どこまで広 がっていくのが興味深いが、経済専門新聞としてはこうした方向性もありだろう。
朝日新聞は・・・
朝日新聞の2014年の最初の新聞の一面トップは『めざす 世界の1%』『済州島に英語都市』『慶大中退 アブダビに』。
この日から始まった「教育2014 世界は 日本は」という連載の第1回で「グローバルって何」というタイトルがついている。
安 倍政権が進めようとしている教育改革を前提として、どこが日本の教育の遅れている点がを先進地域の現状を紹介して行こうという試みだ。グローバルな人材を 育成するにはどうすればよいのか、と課題を探る連載で、韓国の済州島やアラブ首長国連邦のアブダビ、さらには長野県の軽井沢などに出来つつあある「グロー バル人材育成学校」を取材する。
こういう連載そのものは否定しないが、しかし、これがはたして元日の一面トップの内容なのか?
日本経済の将来に結びつくテーマであるので経済専門紙なら理解できるが、一般紙としてはどうなのか?
他にやるべきテーマがあるのではないか?
日本のジャーナリズム界で朝日新聞がこれまで果たしてきた役割を考える時、物足りなさを感じざるえない。
東京新聞は・・・
こうしたなかで元日の一面トップでひとり気を吐いた印象だったのが東京新聞だった。
『東電 海外に200億円蓄財』『公的支援1兆円 裏で税逃れ』『免税国オランダ活用』という見出しの記事だ。
福島第一原発事故による経営危機で政府から1兆円の支援を受けている東京電力が海外で200億円の蓄財をしていたという事実をすっぱ抜いたスクープ記事だった。
また東京新聞一面では、この『東電 海外に200億円蓄財』のすぐ横に『浜岡増設同意 地元に53億円 中部電ひそかに寄付 80年代』という記事も載っている。
こちらも電力会社と地元自治体との密約を暴いたスクープ。
東京新聞の元日の一面の記事からは2つのことが読み取れる。
それは東京新聞が2014年も当局が発表する情報を元にした「発表報道」ではなく、記者個人の問題意識を重視した「調査報道」に徹するという覚悟を持っているということ。
さらに、東京新聞としては、原発の問題を報道の核として位置づけていくという覚悟を持っているということだ。
報道された内容も見事だったが、他の新聞とは明確に一線を画した姿勢が明快だった。
こうやって読み比べてみると、東京新聞のクリアさが明らかな一方で、新聞社としての覚悟をどこに置くのか不明な朝日新聞の一面トップの曖昧 さがとても気になる。毎日や読売の問題意識と比べても、芯が通っていない。リーディングペーパーとしての朝日新聞の立場を考えると不安を覚える。「報道の 自由」を制約するのが明らかな特定秘密保護法が誕生した現在、ジャーナリズムとして何をどう報道していくのかは国民の「知る権利」に直結する。その覚悟が 希薄な印象だ。
一年の計は元旦にあり、とよく言われる。
これまで見てきた通り、元日の一面トップを見れば、その新聞のその後の1年間の価値が分かる、というのが私の持論だ。
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